昭和44年09月05日 朝の御理解



 御理解第98節
 「心は神信心の定規じゃによって、お伺いする時には、とりわけ平気でなけ        ればならぬ。落ち着いて静かに願え。」

 御神意を例えば伺いますなら、心がイライラしたり、落ち着かなかったりという時には、御心意やら伺えないもんです。そげん時にでも例えば何かこうお知らせを頂くと言った様な事はあってもですね、そのお伺いに対して神様が応えて下さると言った様なおかげを頂く為には、心がやはり平生心を保っとる時じゃなからにゃいけません。私今日は心の、心は神信心の定規じゃによってと、こう仰る。
自分の頂いておる信心の、が、どの程度の物かという事は、心の、現在の心の状態を見ればだいたい分かる。と同時に、何かが例えば起こっ、まあ突発的な事が起こって来るとか。何か事あるごとに、ああ自分の信心なこのくらいな事だという風に分かる。確かに心は信心の定規であります。このくらいな事が寂しい、このくらいな事が腹が立つ。このくらいな事でイライラすると。
 自分の信心の程度という物を知る事が出来ます。そこでそのそれを自分信心の度合いという、その尺度という物を知っただけではいけませんから。それをもう一段と信心を進めて行こうという心掛けがそういう都度、都度に要る事が分かります信心の稽古。何のけいこでも同んなじでありますように、稽古をしておるので御座いますから、色々と習わせて貰うそれを実証させてもらう。
 それが自分の物に段々なって行く。どの程度のことが出来るようになったかという、これは試験がある事も間違いない。それをまあお試しと教祖様は仰っておられる。信心に身が入ってくるとと言う、信心のけいこを本気でさせて頂こうという姿勢になると、お試しがありますぞとこう言うておられる。信心に身が入ってくると、神様のお試しがありますぞと、用心しなさいという風に言うておられます。
 ですから、信心のけいこをさせて頂いておる者にとっては、すべてが、だからお試しであり、試験であります。ところが、信心のけいこを形の上にはしておっても、けいこをしようとか、けいこをするとか、という意欲がない人の上に起きて来る事は、全部お気付けです。お気付けを頂いたという時には、だからもう、これはだから、本当にこれは考えなきゃなりませんね、自分がお気付けと感ずる時。
 はあ、試験がありよるな。お試しがありよるなと、気付いた時には、これは、自分の心がいつも、信心のけいこに、心が向いておる時です。だから、私共の日々の信心の中からこの、お気付けという物が、やはり無くならなきゃいけんと思うですね、くらいな真剣な態度がなからなきゃいけないと。例えばその、試験があると言うても、突発的に、さあ今日は何の試験をするぞと、と言われるような時もあるし、試験がある前には何時いつは、試験があると。
 例えば大きな試験のような場合は、前々から、ずっとそういう一つの前知らせといったような物がですね、あっておるはずです。私共、今までお気付けという事をよく使って参りましたが。まあ、確かにお気付けと実感してるんですね、感じておるです。だから、お気付けを頂いておるという間、これは本当に信心のけいこを。もうしっかり信心のけいこをせんかと、言うておられるのですよ、いわば。ですから、お気付け。
 けれども、それを試験と、それをお試しと受けれた時にはですね、信心のけいこをしておる時です。しかし、同時にここで分からなければならん事はね、もう決して神様は教えていない所から、試験をされる事はない。必ず、繰り返し、繰り返し教えてある所からしか、試験は、の問題は出ない。ですから私が、いつも言うその、問題は問題にするには足らんとこう言ってる訳です。
 だからお気付けをいつも頂きよる人は、問題は問題にしなければならん訳です。だから問題を問題とするような事ではなくて。その問題そのものがおかげとして行く所には何もないでしょう。これもう本当に私は今日この始め99節と言う所を頂いて、そして反対の方にこの98節を頂く。99節を頂くのかなと思ったら99節という事を頂いて、98節の御理解の、心は神信心の定規じゃによってと言う所を頂くんです。
 だから99節というのは、百という事が一つのまあ成就、成就の、成就点ですかね、とでも申しましょうか。一つの事がこう成就する。それは些細な事であっても、その事が成就する事の為にはね、やはりその小さく言うてですね、99節と言うように、いくつもの沢山の節を辿らなきゃいけない。いわゆる沢山の試験を合格して行かなきゃいけない。それをみやすうもうそこんところを。
 平生心を持って試験に合格して行くと言うようなです。おかげを頂かなければならんのですけれども。それが、なかなか、そういう風に受けずに、ただお気付け、お気付けと言うて、お気付けで頂きよるから。一つも進展しない先の方へ進んで行く事が出来ん。私は今日はここの確かにですね、そのそういう一つの節と言うか。99節というほどしに、のところを通らせてもらう時は、とうもなかなか難しい試験が。
 ですから、そこんところをどのような、いわば心の調子と言うか、平生心を持って受け抜いて行くかと。それを、私共は教祖の御信心の進められ方。教祖の御生活の態度という物の中から、自分の物にして行かなければいけないと思うんですね。神様からお知らせがあった。今日は親戚の誰それが亡くなった。近所の親戚を連れのうて、誘うてお悔やみに行けと神様は仰っておられる。
 で教祖様はやっぱりビックリされましてから、近所の親戚を連れのうて、その家にお悔やみにお出でになられた。ところが、向こうへ着かれると、当の本人が出て来られてから。いやあ、皆さんお揃いでと言うてその、迎えられたと言うのである。もう、その瞬間ですね、問題は。昨日、神愛会でございましたから、先生方の会合が毎月あります。中でその、今のこのお話が出たんですよね。
 もう実際は、その、そこでその、徳に、お徳に決まると言うか、おかげに決まるというか。おかげを落とす事になってしまうのかは、もうその瞬間のもんだということ。私共が引き上げて帰りましてから、私方は酒の配給を致しておりました。ですから、まあ5~6人の家族でしたら、その当時、酒の配給をしておりますと、まあ食べて行くだけは心配はいりませんでしたりも。
 そういう時に企業整備と言うのが何回もあったんですが、またその時にも御座いましてね。丁度私の方の地区に矢作の地区に私の方と矢作にもう一軒。これは私共の方よりもずっと新しいお酒屋さんでしたけれども御座いました。それが一軒にならなきゃいけんとこう言われる。当時は矢作地区だけじゃなくて、向こうの方にもある島もまだ、草野の時代ですから。矢作、椛目、島ですねのその酒の配給をやっておりました。
 ところがその、二軒が一軒にならなきゃならんと言うので、まあ投票でという事になった。実績ももちろんです、だから実績から言うと私がまだ、北京に行く前の実績がありますから、もうどこよりも私の方が草野では一番でした、実績を持っておるという事という意味では。だから、それはその、実績で行けば、まあ当然、私の方ですけれども。その、やはり皆さんの便利を計る為に、地の利という事が問題になった。
 ご承知のように、椛目はもう十何人かの小さい小部落でありますから、そこでそのまあ投票に。丁度まだ内田さんのご主人が健在の時分でした。今日何か村の会合で出た所が、さあどっちにすんのちいう話が出た。まあ大坪さんがたが長くはある。そした所がその、まあ色々話のその雰囲気の中からっさい。まあタオルの一筋でん持って、その頼みに来る所にしようじゃんのっちゅう様な話が出たらしいんです。
 それで内田さんが、それを内々にすぐ知らせて下さった家に。お父さんこういう雰囲気だからとにかくまあ、頼むとお願いしますと言うて、タオルのひとつづつも持ってまあ、頼みに回れという訳なんです。もう普通から言やあそれが当然の事ですから、頼みに行くのが本当ですけども。その私のいわばギリギリがちったばかり、よがんどるもんですからね。いや信心をさせて頂いておりますからね。
 そげんまでしてから、私はあの回らんでん良かと。それまあある意味合いで、自信もあったんですね。俺は酒屋が出けると。はあ親先生にその事をお取次ぎを願って、お願いをさせて頂いて。親先生もやっぱり私共の生活、生活にかかる事ですからね。まあ一生懸命お願いをして下さったんです。そしていよいよそれを、開票しました所がですね、私の方が落ちておった。
 その瞬間です問題は瞬間、私が思うた事はですね。これは神様がもっと良か商売ば下さるなあと思うたです、これは本当に。これはしもうたてんなんてん、全然思いませんでした。それがですね、やはり何事にも信心になっとかなきゃ。その時にどうでしょうか。私がなら、内田さんから言って貰った様に、一つの何か物の一つも持って行って、言うなら部落を回って、お願いにでも回っておるほどしにのものであったら、私はガッカリしとっただろうと思いますね。
 神様にお願いをしてあるのだから、折角だけれども、それは私はせんと。と言う様なまあその、腹でおりましたから。愈々長年それこそやって参りました、酒の配給を止めなければならない。もうひとっつも未練がなかった。だからその事を話すんです。その時に私が、酒屋をまた従前通りにされたら、酒って言うのはまあ私のいわば本命ですから。今頃あの様に酒がどんどん扱われるようになりゃあ、はあどこの酒屋さんよりもひょっとすると儲け出しておったかも知れん。
 けれどもそれはやっぱり、一介の酒屋さんに過ぎなかっただろう。あの時に酒屋が出来なくなったという所から、大きくまた運命が変わって来とる私の方は。ですからねその瞬間の問題ですよ。はあそりゃあしもうた。その事をすぐお届けに参りましたら、親先生の方がそりゃあどうすんのち言われました。所がもうこっちはもう親先生是はもう神様がですね、何かもっと良い仕事を私に与えて下さるという事に間違いありせん。
 いやあアンタがそげん思うとるなら良かけれどもと、言うて下さる程しでした。あの本当にあのサラサラ是はしもうたと言った様な物はなかったですね、お願いはしておったけれど。もっとより良い商売を下さるという確信の方がとにかく強かった訳です。ですからおかげを頂いたという事になった訳ですね。と言うてそれがすぐならはあやっぱり神様が次の商売を下さる事の為であったと言うてならすぐ誰かがですね。こういう商売がありますよ、ああいう商売がありますよと言うて下さるような事はなかった。
 さあ、それからどういう商売をさせてもらおうかと、いろいろ、研究に研究をしてさまざまな事をさして頂いた。そのへんのところも、また大事ですね。例えて言うならもしこれを私がお取次ぎをさせて頂いたら、そりゃあ大坪さん、神様がよりもっと良いお商売を下さるつもりだからですよと、まあお取次ぎしておったに違いないですね、もし私がお取次ぎしとったら。
 ところが一ヶ月立ったっちゃ、二ヶ月立ったっちゃ何ぁにんおかげらしい物はなかった。この辺の所が大事。一向に皆さん一生懸命、何を商売させて頂いてよかろうかと、まあ例えば探しておりましてもです。中々是はと言った様な、しかも資本がある訳ではなしに、無資本の状態ですから、中々良い商売なんてあるもんじゃないです。まあ手当たり次第様々な事をさせて貰いました。
 この辺の所にですね、その神様がより良い仕事を与えて下さるという気持ちが段々薄くなって来る人が、実を言うたら多いのじゃなかろうかと。是は神様もう当てにはならんと言う様な気持ちになって来るのじゃなかろうか。けれどもこれはこちら自身の方がそれを思い込んでおる。これは神様がより有り難いお仕事を下さる前提だと分からせて頂いたから。それから一生懸命に仕事探し、お商売探しをさせて貰う。
 金の掛らんで仕事の出来る仕事をという訳である。この辺の所がねまあ昨日神愛会でも問題になったんですね。こう言う所を大事にしなければならない。同時にそういう例えば自分の生活に関わると、言った様な事柄の問題が起きた場合でもです。その受け方そのもう瞬間でおかげが、次のおかげが決まるんだと。言うならば神様の大きなお試しを、まあ言うなら百点満点で合格したと言った様な感じですね。
 是だけ信心しよるのに、どうしてじゃろうかなんて言う様な事、是から先もないもん。教祖様がお悔やみに行けと言われて、お悔やみにお出でられた所が、当の本人が出て見えた。いやあ皆さん今日は、お揃いで何事ですかと。それこそ脇の下から汗が出る様な思いをなさった事であろうと思う。挨拶を述べて帰られる時に、神様が戻しの風は十層倍、戻しの風は十層倍と言うて帰れと仰った。
 ですから例えばどんなに考えても理不尽。どんなに考えても理屈に合わない。何のため神様はそういう事を教祖に命じられただろうかと。と言う様にもうそれを詮索する人がありますね。どういう訳にこういう事になったんでしょうかなんて言う。そこにあの信心のもう、霊妙不可思議な世界に繋がらせて頂く事の為にはですね、そういう理屈じゃないです、そういう時に。神様あなたはあげんしらごつばっかり言うちから。
 私は今日はもうほんに、脇の下から汗が出ましたよ、と言う様なものがさらさらない。何かそこには、神様の御都合がある事に、違いはないとしてです、お帰りになっとられる教祖に戻しの風は十層倍、戻しの風は十層倍と言うて。普通でならばね、なら十回なら十回ぐらいお試しを、受けなければならん所をです、今度のは一回で済んだ、と言った様な風にも頂けましょうね。
 十年かかる所を一年で、おかげが受けられるという風にも頂かれましょうね。見事な受け方頂き方。これなんかは、教祖の御信心の、いわゆる御信心態度っていうものが、私共は、どういう訳に神様はそういう事をなされたじゃろうか、仰ったじゃろうかという事を詮索する。神様の仰っておられる事にゃ間違いはない。けれども、こちらが頂き違えたのかも知れん。教祖はいつもそういう御態度であった様ですね。
 お子様が一人は亡くなられ、一人は全快のおかげを受けられると言った様な、まだお百姓をなさっておられる時代に。養生の甲斐もなく、お一人のお子様が亡くなられた。一人はおかげで全快のおかげを頂かれた、床徳上げのお祝いをなさるのに。やはり神主を呼んでお礼のお祭をしておられる。そしてまあその当時では沢山のお供えをして、その事を神様に手厚うお礼を申しておられます。
 いかに教祖のお心の中にです平生心。いわゆる心が心が定規だと言うならば、次には平生な心という物がです、本当にその事を見極められる。そこに私共の信心の不行き届きが一人の子供を無くしたという事になって、お詫びになって現れ。一人の子が助かられたという事に対して心からのお礼を。ただ口だけでお礼を言うとじゃない、それだけのいわば実意の込もった事をなさって、お礼を申しておられる。
 こういう教祖様の御信心態度と。そう言う様なものが理屈抜きにしてです、私共の生活の上にも、頂ける様になって来なければいけない。こういう風にそのまあ垢抜けした受け方、頂き方と言った様な物がです、その瞬間に決まっておるすでに。よくよく考えてみたらおかげと思う。その時にはやっぱりグラグラしておると言う様なものではない。だから常日頃いかに信心の稽古がしておらなきゃならないか、いつも平生心を求めておらなければならないかという事が分かる。
 同時にです今日私一番初めに申しますように。私今日今日初めてこんな事皆さんに言っておる訳ですけどね、お気付けで頂く様な事じゃ出来んち。お気付けち言うのはもう、信心の稽古をしようという姿勢、態度がない時お気付けを頂くんだと。折角合楽にお参りをしよって、ただお参りをしよるだけじゃでけん。ここに信心の稽古に通うて来る所と仰るじゃないか。それに稽古も稽古し様という心が、今なかろうがお前の心の中には、という時にお気付け下さる。
 形は同じであっても、それが信心の稽古を、させて頂くという姿勢が出けておるならば、それはお試しとして受けられるのである。それを百点とるか八十点とるか、五十点か落第点かという事になるのです。もう分かっちゃおりましたけれども、それはもう知っちゃおる事だけれども、それが実行出来なかったと、言った様な時がありますもんね、やっぱお試しと思うとっても、そのそれがやりきれない時がありますよね。
 ここじゃ言うちゃならん、という事を分かっておって言うてしもうたと。また落第したと、だから言うこと申しましょう。そういう時にはやはり姿勢が、信心の稽古の方へ向いとる時です。落第したという言葉を使っておる。どうでもそのお徳を受けるという事、おかげを受けるという事。節を受けて節から折れる人もある。まあそれを分かりやすく言うなら、そういう節をあった事のために信心を止める人もある。
 これはもう節から折れた人ですよ。ところがそこん所を例えば、まあシダゴダながら通り抜けさせてもろうて信心は続けておる。そこん所を信心受けておるからおかげは受けるけれども、それではお徳は受けられない。その瞬間おかげとそれが感じれれる様な信心からしかお徳は受けられない。そりゃそうですよね。お徳を受けりゃ人間が真実幸せになれれるというのですから。
 ですからそういうなら一回、二回合格したからというものでもないですけれども、そういう蓄積。そこん所にです、例えば一つの思い込みというものですかね。昨日もその話が出たんですけれども。だから私くしのその時代のお話をさせて貰った。神様の前にね神様の前に、成り行きを大切にするとか、自然との対決とかと言った様な、あぁ言う様に合楽では、合楽の信心の生命の様に言うておる事が何時の頃から、あぁいうハッキリした物になって来ただろうかと。
 いつの間にかなったとですよ切りがないんですよ、ここからちゅう事ないですよ。それは私がですね、私の上に起きて来る様々などういう問題であってもですね、それをいとわずに修行として受けて行くという、私と神様、私が神様にその事を誓うた所から始まってるですよ。私の身に起きて来るその事をいとわないという。どういう問題が起きてきても、それを修行として受けて行くという態度を決めたところからです。
 あのハッキリそこん所はハッキリしてます。四年半、五年の式年祭を仕える半年前に頂いた。その四年半に起きてきた色んな問題を、昨日ずうっと私お話させて頂いて。こういう事もあったこういう事もあった。しかしこういう時に今から考えて見て一つもヨロヨロもしとらんです、その一つ一つの問題を私が。もう受けるもんだと決めてしまっとるから、一つも問題じゃなかった訳です。
 いわゆる試験問題が例えば出ましてもです。もうそれを問題とも思わんくらいに、そこは簡単にやってのけて来とる訳です。しかもそげんまではせんでん、ちゅうごたるところまで、四年半ぶりに神様が仰っておられる事は。これからは言うならばね、ほうれん草をあの時にお知らせ頂いて。今まではお髭がついておる所でも、葉が赤くなっておる所でも、もう頂くと言うたら全部頂きよった。
 是からは栄養になる所だけ。まあ枯れた葉なんかはもう千切ってしまえ。しかも綺麗に水洗いして、栄養になる所だけを頂くと言う様な、いわばおかげになって来た。そしてからそこに一線を引いた様にですね、あの時分の事をご承知の方は知っとられます様に、一線を引いた様に、あの病人さんをが、もうとにかくもうそれこそ、青瓢箪のごたる人達が沢山修行しよりましたが。そう言う様な事が無くなりましたですね。
 椛目から当時の。金を貸してくれなんていうのが、全然無くなりました。もう本当に修行するならば、本当に信心の修行のために修行するという人達が、になって来たでしょう。だからいかにその四年半の間が、お試しの連続であったかという事が分かりますけれども。このお試しをお試しとも思ってなかった訳ですね私は。勿論お気付けとはサラサラ思わない。それをそう頂く事が、
 もう私がもう信心だと思い込んでしまってるですから。もう瞬間決まってるんですか。こういうのばお願いします、さあそれはちょいとこげな時病人ば連れて来てどうすんの。棒にも箸にもかからんごたる病人を連れて来てと、これから先思ってないもん、はいどうぞです。一遍あの古賀さんが連れて来られましたあの、椛目で亡くなられましたね、ひろきさんていうあの子供の時なんか、そげんでしたよ。
 親がおっても親が寄り付かんのじゃから。それに伴うて起きてくる様々な、検事局に呼ばれる警察に呼ばれる。もう様々なその事が御座いましたけれどもです。それをもう本当にもう迷惑なこっちゃあるなあ、なんて一つも思ってなかったという事です。今から考えて見ると合楽の受難時代であったと思いますけども、受難と思っていないですもん。と言う様にです、是はなら私のいわゆる信心態度というものがです。
 皆さんもご承知の通りでございますから、そういう様なですね、一つのもう受けるんだ、もう黙って言わんと言うたら言わん。受けると言うたら受けるという腹を決めときゃ、楽にそこは合格、どういう試験を受けていっても、そこがおかげを受けられる。けれども、その信心の稽古をしようという態度がない所に、それが矢張り痛い事は痛い。問題が問題になって来るんです。だからその問題が問題にならないほどしの、おかげを受けさせてもらう。それは瞬間によって決まる。
 昨夜久富さんがお届けをされますのに、ちょうど2~3日前のあの大夕立の時に。あの日朝から屋根替えが始まった2日間がかりで。ところがもうその日に限ってあの大夕立であった。もうはぐってしまってある所へ貴方、中にこうシートを敷かれた所が、中が谷のごつなってどんどん流れたっちいう。娘さんのタンスの所なんか気が付かんでおったもんだから、そのそのお嫁入り前の娘さんですから、着物も沢山買うてあったんですが、それがもう濡れるは濡れない。
 屋根あの屋根の汁でしょうがお醤油のごたっとでしょうが。もうそれはそれはもう大変な事。それで繁雄さんが、あのカズエさん務めに出ておりますとが。帰った時にカズエさんに断りを言わっしゃった。本当に俺が不行き届きな事で、お前の着物ばこげなこつねぇちからち。それからまあ明くる日すんで、昨日は一日大掃除やったそうです。で昨日ここでお届けをされるのにです。
 先生もうそれは大変な事でございました。畳は濡れとるし、しかも濡れとるというのが、屋根の修理ですからね。それをきれいに拭き上げて。その代りもう屋根から掃除が出けた。では御座いましたけれども、おかげで思いもかけないいわば隅から隅までのお掃除が出来ましたという御礼をしておられます。ですから私はそれはあの屋根拭きを屋根をとってしもうたつに、お湿りがあって来た時にですよ。
 その瞬間繁雄さんの心どうであったか、それは私は知りませんよ。けれどもその前の日にお届けしておられるのに、あげなこっでしたけれども、家内やら子供達がお父さん、あんたが合楽にばっかり参るばってん、あんた今日は、天地が自由になるちゅう、神様ば頂いとってどうしたこつの、とも申しませんでしたと。もうその事を、前の日はお礼を言いよられました。
 けどもなら、繁雄さんの心の中にはです、それが瞬間、その時のその、さあこれはもう、さあどうするかという物がです。どういう風な信心、平生心というものが、どういう風に現れておったか、それは分かりませんよ。瞬間おかげと決まっておったか、はあ、どうしたこっちゃろうかと思われたか。それは、お届けがないから分かりませんけれどもです。だんだん、日にちが経つに従って、3日間の間に自分の心の中に頂けておられるものはです。子供の前にでも詫びれる自分。
 または、のおかげで思いもかけない大掃除が出けたというお礼。これは教祖様ならどのように受けられたであろうか。その話も昨日、親先生ならどげん受けなさるじゃろうかちいって、いう事でした。だから様々の皆さんの上にもです、その試験問題という物は様々なんですけども、その試験問題が問題にならないくらいに簡単に出来れるようなね、おかげを頂かなければならん。
 それが私その日頃習っておる所からしか出らんのですからね、試験問題という物は。教えてない所は出て来んとですよ、そこでこれはあぁほんに繁雄さんのその前の日のお届けはですね。私が神様の前にですね何とかっち。土居の言葉だからちょっと忘れた、何かしだごだと言いよる風な意味なんです。スカタンばっかり食らわせよりますから、神様がこの様にしてスカタン食らわせなさいましたというお届けでしたよ。
 確かにねそのあの大祭が済んでからその後の事ですね。その後の事は確かにスカタンを食らわせておられる2~3日が続いた事があります。スカタンち言うたらえらい悪かですばってん繁雄さんはそう言われました。神様にこうスカタンを食らわせてばっかりおりますから、神様からスカタン食らわせられたとこう言うている。そこに反省がある。だから、ういう問題を私ならどう受けるか。
 教祖様ならどう受けられたであろうかと。皆さんの前に出てくる問題は、必ず家の内の事ばっかりじゃない。屋根替えの事ばっかりじゃない。様々な問題を通してです、神様は絶えず私共の信心を見守っておって下さる。有り難い信心が分かって来たと言うから、どのくらい分かったであろうかという試験が絶対ある。それを教祖様は信心に身が入って来ると、必ずお験しがありますぞと用心なされやと仰っておられます。
 最近このお試しという言葉を私は、本当に使いませんでしたですね。 私はその夕べ繁雄さんのお届けを聞かせてもらいよってから、はあ本当にこれは改めてお験しという事を、是はもう一遍考えなきゃいけないと思っておる所へ、今日はこの99節という所を頂いて、98節の心は信心の定規じゃという所を、に焦点をおいて頂かせてもろうて。心のいわば平生心というものがです。
 いつも信心の稽古をしておるという姿勢体制という物が出けておればです、問題にならない程しに及第が出来る程しに十分習っておる所なんですけれども。それをお験しとも思ってはいない、稽古しようとも思っていないから、お気付けを頂きましたという事になる。もっと悪いくなるとそのお気付けを頂いとっても、お気づけをお気付けとも思わないというのがまだありますよ。
 ですから私共の信心生活の中からです、このお気付けという言葉を一つ無くする様なおかげを頂きたい。すべてがお験しだと。そこを私共がどういう言わば点数で合格して行くか。お徳を受けるという事はその瞬間に決まるものだと。おかげを受けるという事は、それは3日かかっても5日掛っても、しだごだでも良いけれども通りさえすりゃおかげになるけれどもお徳にはならない。お徳はその瞬間に決まるもんだと。
 為には矢張り心は信心の定規じゃという現在の状態。こういう状態の時ならどの様な事が起こって来てもビクともせんで済むと、言う様な自分の心を見極めさせてもろうて行かなきゃいけん。はあ今の様な時に、何か起こりでもしたら大変な事だ、神様どうぞ心の中に和賀心を与えて下され、平常心を与えて下されという願いが、だから必要だという事になってくる訳です。
 ここではお伺いをする時にはと表現しておられますけれども。今日はただ平生心というところ。心は信心の定規というところに焦点を置いて、お伺いをさせて頂くにいたしましても、心が乱れておったり落ち着いていない時にはお伺いっていうものは出来るもんじゃない。ましてや神様が下さる試験問題といったような時には、慌てておるような時には、なかなかそれを瞬間で決めて行くようなおかげにはなって来ない。
 という意味合いでです。私は今日は特に、そのお気付け、そすとお試という事を持ってお話させて頂いたが、私共の信心生活からお気付けという物が無くなるほどしのおかげを頂きたい。そして、どのように99節というように、9に9が重なるといったような時でもです、それをお験しとして見事に受け抜いて行く時、必ず百のおかげが受けられるという事をですね。いわゆる、百節にありますように。
 めでためでたの若松様よと言った様なおかげになる為にです、私はこの99節と言われる思われる様な時でも、そこを頂いて行かなきゃいけません。ただ口に久富さんじゃないけれどもおかげで大掃除が出けましたという所まででも、信心が成長しておる事は有り難いけれども、教祖様ならこれにそれこそ、もう一つお供えぐらい添えて、おかげで大掃除が出けましたという事になっておられるのではなかろうかという風に思うのですよね。
   どうぞ。